Minato Serenade

本人が書いているとかいって風説を流布する61歳キショい。

湊クラシックス➂ 「身の上話」を書く理由(鷺沢萠『駆ける少年』を読んで)。

※このエントリーは2018年8月18日、前Blog2年目に掲載したものをクラシックスとして再掲載したものです。

 


 

 今日から、このBlogも2年目に入った。今まで読んでくれた方、コメントを寄せてくださった方には、感謝しかない。自分がやっていることに自信が持てます。ありがとうございます。

 

 私は朝から机に向かって鷺沢萠『駆ける少年』を読んでいた。しかし、外の騒音が気になって、まったく頭に入らない。部屋の目の前のビルでは再開発のための取り壊し工事が始まっていて、大きなクレーンで重機を20階近い建物の上に載せて作業が行われている。

 今日の東京は朝から風が吹いている。エアコンの原理がどういうものか知らないが、寓居のエアコンは湿度が低いと動作が悪い。なので、室温は28℃に達するが湿度が40%以下という状況では付けても意味がないから窓を開けていた。

 鬱陶しい。1日単位で容貌を変えていく町も、通り過ぎていく車の騒音も、すべてが私を苛立たせる。私は騒がしさより静けさの方が苦手で、東京拘置所に入れられていたときも、小菅という都内にありながら静かすぎて眠れなかったほどだ。

 しかし、今日は、それらが非常に煩く感じるのだ。そして逃げ出すことはできない。江戸時代から、代々、東京で暮らしている我が家族には郷里などという場所はない。私が子供時代を過ごした松戸市小金原の家も朽ち果ててしまっているし、そもそも町が寂れて人が住むところではなくなっている。

 とにもかくにも鷺沢萠『駆ける少年』は、その所収する3編すべてを読み終えた。表題作『駆ける少年』は筆者が父親の足跡をたどった物語である。同じ泉鏡花賞受賞作ということもあってか、やはり祖父の生涯を追った村松友視『鎌倉のおばさん』を彷彿とさせる。

 泉鏡花というと『高野聖』に代表される耽美というか妙なエロティシズムのようなものが連想されるが、泉鏡花賞というのは、その文学性とは関係なく催されているようである。また、村松友視を目指していた鷺沢萠の方が、ずっと先に獲っているところも興味深い。(村松友視先生は現在の選考委員に名を連ねている。)

 1編目『銀河の町』については、以前のエントリーで触れたので、そちらを参考にされたい。さて、表題作『駆ける少年』と、それに続く『痩せた背中』である。両者に共通しているのは、生き急いだ人について書かれているということだ。

 文学作品、特に小説は全体を通して一作品なので、一部分を切り出すことは作品を冒涜するような気がするが、あえて抜き出す。たとえば『駆ける少年』には、このような表現が出てくる。

怖くなかったのでは決してない。ただ、その怖さを抑圧してでもどこかへ行かなければ、自分自身を救えなかったというだけだ。

 また、これも、一部を切り出したために「オイサン」や「粒々」といった単語が意味するところが判らないと思うが、『痩せた背中』には、こういう表現が出てくる。

 オイサンもやはり、身体の中に抱えきれないほどの粒々を持って、どうしていいのか判らない熱い気持ちのために途方に暮れていたのかもしれない。

「そういうワケにもいかない、か……」

 小さく呟いてみた。

  この2編に先立つ1編『銀河の町』を含め、これらの小説の登場人物たちが置かれた立場は、けっして恵まれてはいない。私は『銀河の町』をエレジーと書いたが、それは、現状の生活を維持していこうという人たちの思いが、くじかれるからだ。

 当たり前のことだが、生物は生きていかなければいけない。さらに人間は幸せを求めるし、それは、希求権としてだが権利として憲法に謳われている。少なくとも、この物語の登場人物たちは、不幸な現実を、なんとかしなければと思っている。

 原典がないのでタイトルすらウロ覚えだが、たしか、筆者には「理由なんてない」というようなタイトルのエッセーがあった。内容としては、なぜ書くのかと訊かれるが、書きたいから書くのであって理由などないという趣旨だった。

 同じように、この本の登場人物が幸せに生きたいと思うことに理由があるのだろうか? それは、生物として、人間としての摂理ではないのか。そんなことを思う1冊の本だった。そして、それは、そのまま、なぜ、自分が物を書くのかということに通じる理由だ。

 現状に満足できない自分という存在を考えると、やはり、なぜ、そうなったのかを考えなければいけない。書くことは考えること。過去は変えられないといって、そのことに否定的な人が多い。しかし、私は、その原因を突き止めたい。そして、その思いを他人に伝えたい。同じ轍を踏んでほしくない。

 英語に"personal fulfillment"という熟語(?)がある。私が「身の上話」を書くということは、人生における山のような存在で、それが、苦難を伴っても、登ることに理由などない。気が済むには登るしかないのだ。

 

P.S. 苦難のひとつとして、私の不幸を引き起こした両親に、明日にでも会ってこようと思います。気が進まないけど、現実を直視して未来に進むために。